三浦綾子入門

三浦綾子入門 番外編.三浦綾子さん関連番組その1-後編

番外編.三浦綾子さん関連番組その1-後編

1999年12月25日(24日深夜)放送
「ラジオ深夜便 北の文学・作家三浦綾子さんを語る」より

ゲスト:高野斗志美さん

前編からの続きです

(それでも明日は来るの朗読を聞きながら)

司会:

高野さん、引き続きよろしくお願いいたします。

高野:

お願いいたします。

司会:

この1時台は三浦綾子さんが1989年、ちょうど10年前に出された「それでも明日はくる」というエッセイをご自身で朗読されたテープを聞きながら三浦さんを偲んでいきたいと思います。ではまず、巻頭の三浦さんのメッセージからお聞きください。

こんにちは。三浦綾子でございます。「それでも明日はくる」という私の随筆の本のこの題はみなさんが喜んでくださいました。健康な方とか、何事もない日々が無事に過ぎていく方には明日という言葉はそれほど大きなものではないかもしれませんけれども、私などのように十三年間も病気をしたとか癌などという病気にとりつかれて苦しい思いをしたとかあるいはなにかで苦しんでいる方にとって、明日という言葉は本当に希望のある言葉だと思います。しかし、明日は常に希望に満たされているというわけではなく、いつか死ぬ、明日も来るわけですけれども、でも死も決して最後ではないんだということを私は言いたいと思ってこの本を書きました。

とにかく死も決して最後ではない、神の愛によって永遠の愛を与えられる、そこにこそ本当の明日があることを信じて共に生きていこうではありませんか。お元気で。

司会:

高野さん、死も決して最後ではないそうですね。本当の明日があるんだということを三浦さん、おっしゃっていますね。

高野:

そうですね。やはり同時に三浦綾子さんは人間にとっては人生の終わりには死ぬという大切な仕事がある、という風に常日頃からおっしゃっておられましたですね。ですから今日の三浦綾子さんのお話と表裏一体を成して、そこに生きることと死ぬことを見つめた作家の姿がありありと浮かんできますね。

司会:

なるほどね。ちょうどこのテープを吹き込まれた1989年、ちょうど十年前、「それでも明日はくる」のエッセイが出た年なんですが、三浦夫妻の結婚30周年、またその綾子さんの作家生活25周年、たいへん記念すべき年だったのですねぇ。

高野:

そうですね。結婚生活40年をやがて迎えていくわけでそれで夫婦のこの世での生活は終わるのですけれども、そういう晩年に向かって、やはりこの作家が心技体、そういう色々な苦しみを乗り越えながら新しい作品の世界に向かって自分を歩ませていく、ということもありますし、それからやがてこのあとパーキンソン病という難病にかかっていく、そのいわば前夜ということになりますね。

司会:

作品ばかりでなく講演活動も非常に積極的にされていた方ですが、この年あたりからその講演を控えられると、

高野:

そうですね、三浦文学ということを大きく考えた場合には、小説、エッセイの他に、三浦綾子さんの場合は講演活動というのがひとつの大きな分野を占めているわけです。その講演は非常に大きな影響を聴衆に与えていったわけですけれども、それが少しお体がだんだんと不自由になって、やがてできなくなっていく、というのはたいへんつらいことであったろうと思いますね。

司会:

その意味でのこうしたテープを通して、多くの方々にメッセージを送りたいという気持ちがあったのかもしれませんねぇ。

高野:

そうですね、やはりそうだと思います。たくさんの人に、心を造り替えていって欲しいという願いを込めたメッセージをこういう形で送り届けたかったんだろうと思いますね。

(冬の塩狩峠)

司会:

さあそれでは三浦綾子さんの朗読「それでも明日はくる」の中の冬の塩狩峠の一部をお聞きいただきたいと思います。

塩狩峠は旭川から最果ての稚内に向かって北方三十余キロの地点にある。この塩狩峠は手塩の国と石狩の国の境にあるのでその名がついた。
旭川は寒い土地だ。わたしたちの小学校の頃の地理の本には日本一寒いところだと出ていたものだ。が、それは測候所が少なかったからで実はもっと寒いところが北海道にはいくらもある。この塩狩峠もその寒いところのひとつだ。この峠を越えると旭川とは十度も違うと言われるほどに厳しい冬がそこにある。
なぜ私が井戸という小説に塩狩峠を出したか、それにはいくつかの理由がある。十八歳の冬、私は女学校時代の恩師を訪ねて名寄に行った。寒い日だった。汽車の窓が厚い氷紋で覆われ、外は少しも見えなかった。客車の中には小さなダルマストーブがあるだけで、オーバーを着ていても、寒さが身に沁みた。どのあたりを走っているのかと、私は窓にぺたりと掌をつけて、五ミリはある厚い氷紋を融かそうとした。が、掌が痛いほどに冷たくなって、私はすぎに手をひっこめた。そして毛糸の手袋をはき、僅かに一センチ程融けかかった部分から、その周囲に向かってごしごしと氷紋を削りはじめた。そしてようやく、僅かにひろがったガラス越しに、私は息をのむような光景を見た。黒ぐろとつづく針葉樹林に、きらめく霧氷を見たのだ。
霧氷は、空気中の湿気が樹木に凍りついて、水晶の林とも、銀の林ともいいたいような様を呈する。旭川育ちの私は、霧氷はいつも見ていたが、その時の汽車の窓から見た霧氷は、未だかつて見たこともないほどに、荘厳なまでにきびしく美しかった。折から朝日がその林を照らし、私は一瞬、童話の国に誘い込まれたような、錯覚を覚えた。あまりの美しさに、私は飽かずに眺めていたが、その時汽車は喘ぎ喘ぎ峠をのぼっていた。そして程なく汽車は塩狩駅に着いた。そこには深々と真っ白な雪が積もっていた。駅舎の軒につらなる氷柱は、ガラス細工のように細く鋭かった。寒さが過ぎると、氷柱はかえって太くならない。太い氷柱ができるほどには、屋根の雪が融けないからだ。
その白い深雪の中の道を、角巻を着た女と、二重廻しを着た男が、小走りに走って来るのが見えた。真っ白な雪の中に、赤い角巻が印象的であった。走る女の下駄が、雪を軋ませた。澱粉の上を歩くような、きしきしと軋む、厳寒の雪道特有の音が、車中の私の耳に聞こえた。

雪を真紅に染めて

この若い日の、塩狩峠の霧氷と雪は、私の心の中に、白いひとつの風景として刻み込まれた。それが小説「井戸」に甦ったのである。ちょう

2010-01-10 | Posted in 三浦綾子入門No Comments » 
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